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私について

私のスタンス、そして応援したいのは…

私について

私は、1962(昭和37)年に、奈良県東部にある曽爾村というところで、三人兄弟の真ん中として生まれました。

父親は、山林労働をしていましたが、三人の子どもを育てるために随分と苦労したようです。あまり裕福とは言えませんでしたが、豊かな自然の中で、楽しい子ども時代をすごしました。今でも、自然の中での魚釣りやキャンプは大好きです。

さて、その後父親は製材所で日雇いのような形で働きながら、杉、檜の皮を売るという事業をはじめました。いわゆる“一人親方”です。木の皮は、時代が高度経済成長期ということもあって、家を建てる時の建築資材として、けっこう需要があったようです。

けれども、山林労働の時も製材所で働く様になってからも、仕事は肉体労働だし、けがをしても何の保障もありません。積んである木材が崩れてきたり、木の皮をむく鎌で手を切ったりと、けがはしょっちゅうしていました。
また、オイルショックの頃には働かせてもらっていた製材所が倒産しました。過疎地では働き口も少なく、次に働けるところを探して、ずいぶん苦労していたようでした。

父親は「マジメ」だけがとりえのような人、でした。
不安もいっぱいあったとおもうのですが、とにかく子どもを育てるために、最大限の努力をしてくれたと思います。

母親は、口うるさくて、苦手でしたが、これもまた一途な人で、私たち子どもの事を何より大切に考えていてくれた人でした。母についても思いはたくさんありますが、長くなるのでここでは置いておきます。

マジメに努力する人が報われる社会でないと…

私たち三人の子どもは、そんな両親の元で、貧しい中奨学金を受け、三人とも大学まで行かせてもらいました。経済的には大変な負担だったと思います。その頃は、生意気にもよく両親にたてついていましたが、よく父親は「お前も、お父ちゃんの歳になったらわかる時が来る」と言っていました。

それから30年あまりたって、私も三人の子どもを授かり、今まさに子どもを学校に通わせるのに大変な時になっています。父親が言っていた事の意味が、しみじみとわかる歳になりました。両親はつくづく「大変だったろうな」と想像できます。

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